恋する芭蕉

恋する芭蕉

投稿日:2017年5月3日 更新日:

俳諧には、「花の定座」「月の定座」と言って、月や花を詠み込むところが決まっています。同様に、「恋の句」も詠みこむ約束があります。

俳諧にも人生にも、恋は不可欠のようですね。

芭蕉が愛した女性

芭蕉が愛した女性
芭蕉には、一人、妻のような女性がいました。寿貞尼(じゅていに)です。
元禄7年6月、彼女の死を知らせる手紙を、京都の落柿舎で受けとった芭蕉は、故郷での盂蘭盆で次のような句を作ります。

寿貞尼がみまかりけるをききて

「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」
(取るに足らぬ、数に入らないような自分だとは思わないでおくれ。今、こうして初盆会をおこなって、あなたを弔っているのだよ)

寿貞の死を知らせてくれた甥の猪兵衛には、次のような手紙を書いています。

「寿貞無仕合もの,まさ・おふう同じく不仕合,とかく難申盡候」
(寿貞は不幸せ者、まさ・おふうも、おなじく不幸せ、とにかく言い尽くせません)

「まさ・おふう」は寿貞の子どもたちです。
薄幸の妻(?)に対する愛情があふれる句と手紙ではありませんか。
寿貞の死の4ヶ月後、芭蕉もあとを追うかのように逝去しました。

芭蕉は、江戸に出てきて日本橋で暮らしていたとき、寿貞と同居していたようです。芭蕉と同じく伊賀出身で、芭蕉を追って江戸に出たのだという説も、江戸で知り合ったという説もあり、詳細は不明です。

寿貞には次郎兵衛・まさ・ふうという3人の子がいましたが、父親は、芭蕉ではないようです。
寿貞がどのような女性であったのか、それ以上は分かっていません。そもそも「寿貞尼」という名も出家してからの名前で、本名は何といったのか、それさえもわかっていません。

明治45年に、芭蕉の孫弟子にあたる風律の『小ばなし』に次のような一文があることが紹介されました。

「寿貞は翁の若き時の妾にて、疾く尼となりしなり」

芭蕉の門人、志太野坡(しだやば)が情報源のようですが、又聞きですから、正確性には欠けます。
また、こんな説もあります。
芭蕉は日本橋で寿貞と暮らしていたが、こともあろうに、寿貞が、芭蕉の甥の桃印と駆け落ちしたから深川に移ったのだそうです。藤堂藩では、5年に1度帰郷して近況報告する義務があったが、それができなくなったので桃印は死んだことにし、自分は知る人のない深川に隠遁したというのです。

よくわからないことだらけです。が、だからこそ、興味がつきませんね。

芭蕉は、恋の名手だった!

芭蕉は、恋の名手だった!
芭蕉は、恋の句の名手でもありました。

芥川龍之介は『芭蕉雑記』で、「芭蕉の付け句を見れば、芭蕉が恋愛や人情を描いた詩人であるとわかる」という意味のことを書いています。さて、どのような恋の句があるのでしょうか。

宮に召されしうき名はづかし 曾良
手枕(たまくら)に細きかひなをさし入いれて 芭蕉
(元禄2年「風流の」歌仙)

(高貴な方のお相手に召し出され、浮き名を流したのが恥ずかしいわ。あの夜、細い腕をあの人の手枕として差し入れたのよ)
この句ができたのは、『おくのほそ道』の旅の最中。須賀川で巻いた歌仙の中に入っています。

足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉
(元禄元年「雁が音も」歌仙)

(逢瀬の翌朝、雨の中を帰ろうと足駄《あしだ》をはくことができない。
後朝《きぬぎぬ》の別れにあたって、姫君があまりにもか細く、あでやかであるので)
「後朝の別れ」とは、一夜をともにした男女の翌朝の別れのことです。王朝の物語の一場面ような妖艶な句。

起きもせできき知る匂ひおそろしき 東睡
乱れし鬢の汗ぬぐひ居る 芭蕉
(貞享4年 「旅寝よし」半歌仙)

(起き出さなくても、よく知った匂いからあの人が忍んできたことがわかって、不安と期待とでいっぱいよ。逢瀬の後は、乱れた鬢の汗をぬぐうの)
源氏物語の一場面のような、何とも色気のある句です。

只そろそろと背中打たする 去来
打明けていはれぬ人をおもひ兼 翁
(元禄4年 「蠅並ぶ」歌仙)

(病床で背中をゆっくり叩かせている。それは、思いを打ち明けて言うことができない相手への恋心が募ったせいなのだ)
身分違いの恋に病む人の苦しさを歌っています。

いかがでしょうか。

さても、匂い立つような芭蕉の恋の句の美しさ、あでやかさ。
どんな恋を経験してこんな句が作れるようになったのか、芭蕉の恋に思いを巡らせてみるのも、一興です。

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