歴史あるモノたち

歴史あるモノたち

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芭蕉は、旅先で色々な「歴史あるモノたち」を捜しています。芭蕉にとって、それはどういう意味を持つのでしょうか。

殺生石と遊行柳

能に「殺生石(せっしょうせき)」「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」という演目があります。あら筋は次のとおりです。

「殺生石」

殺生石(せっしょうせき)

妖狐の化身が、見破られて殺される。その魂が石に取りつき、石に触った人に災いを与えた。玄翁和尚(げんのうおしょう)が杖で打つと、石が二つに割れて狐の霊が現れ成仏して消える。

何とも恐ろしげな名前ですが、栃木県の那須湯本温泉付近にある溶岩のことです。おそらく当時の人々は、火山性ガスによって岩に近づいた生き物が死ぬのを見て、岩が妖力で殺していると考えたのでしょう。
芭蕉が見たときは、蜂や蝶の死骸が重なっていました。

「遊行柳」

遊行上人が白河の関にやって来ると、老人が現れて、西行法師が歌を詠んだという朽ち木の柳に案内する。上人が念仏を手向けると、老人は消える。その夜、老柳の精が現れて感謝して消え、柳だけが残っていた。

西行法師が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今和歌集)と歌に詠んだといわれる柳が「遊行柳」です。

現実に柳を見て詠んだのではありませんが、「きっとこの柳だ」と、一本の柳が特定されて歌枕になったのです。芭蕉は、その柳を見ることができた喜びを「今日この柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ」と表現しています。

西行法師を敬愛する芭蕉には、嬉しいひとときであったに違いありません。

「殺生石」と「遊行柳」には、謡曲を背景にして、現実のモノに幻想世界を感じるという共通点があります。和歌を背景としたある場所(モノ)に、古人と自分との連続性(幻想世界)を見出すという点では、「歌枕」全般に共通することです。

しのぶもぢ摺の石

「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに」(河原左大臣・古今集)
(陸奥でつくられる「しのぶもぢずり」の模様のように、乱れる私の心。誰のせいでしょう。私のせいではないのに)

もぢずり」というのは、模様のある石の上に布を置いて、忍草の汁をこすりつけて染める技法です。その時に用いた石が「もぢ摺石」です。現在も、福島市の安洞院にあります。

芭蕉が訪れた時、この石は土の中に半分埋もれた状態でした。村里の子どもが言うには、「昔は山の上にあったが、往来の人が畑の麦を荒らして石にすりつけるので、谷につき落とした」とのことでした。

芭蕉は「さもあるべき事にや」という感想をもらします。
芭蕉は、それまでの旅で、歌枕が自分の期待したようなものではなさそうだ、と気づき始めています。「ああ、ありそうなことだな」に、芭蕉のあきらめが漂っています。

壺の碑(つぼのいしぶみ)

「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壺の碑浜の外風」(西行法師・山家集)
(陸奥の奥地のことは、行ってよく知りたいと思われるよ。壷の碑や、外の浜の浜風を)

この和歌などによって、「壺の碑」というものが陸奥にある、と広まっていました。
鎌倉時代初期の歌学者、藤原顕昭が「陸奥のおくにいしぶみ有」と「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」に記したことが伝承のきっかけであったようです。

多くの歌人が歌に詠んだため、有名な碑でしたが、どこにあるのかはわかりませんでした。
しかし、江戸時代の初めころ、多賀城跡付近で石碑が発見され、これが壺の碑であると言われました。(現在では、これは壺の碑ではないとされ、「多賀城碑」と呼ばれています)

<多賀城碑>
多賀城碑

芭蕉は、多賀城で「壺の碑」を見て大いに感激します。確かに、碑があるのですから。

「ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、泪も落つるばかりなり」
(ここに来て見ると、疑いもなく千年前の記念物で、今眼前に古人の心を知ることができた。旅の利得、生きてきた喜びであり、旅の苦労を忘れて涙が落ちるほどであった)

芭蕉が訪れた歌枕には、見る影もなくなっているものもありました。しかし「武隈の松」「壺の碑」「松島」など、期待はずれでなかった歌枕には、芭蕉は喜びを隠していません。

芭蕉にとって、「歴史あるモノ」とは、和歌や謡曲などの古典とともに存在する「歌枕」でした。それはとりもなおさず「古人の心」「文学の歴史」でもあったのです。

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