松尾芭蕉の師、北村季吟

松尾芭蕉の師、「北村季吟」について

投稿日:2017年4月20日 更新日:

芭蕉の師といえば、北村季吟(きたむらきぎん)。(1625~1705年)

でも、どんな人? と問われれば答えに困りませんか?
季吟は、俳人・歌人・学者・古典文学研究者と、多くの肩書きを持ち、どういう人なのか、今ひとつわかりにくいのです。

季吟と芭蕉

季吟は、近江国野洲郡(滋賀県野洲市)の医者の家庭に生まれ、医学を学びながら、はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳に俳諧を学びました。

24歳で、季寄せ『山之井(やまのい)』を刊行します。
俳諧宗匠として独立後は『新続犬筑波集』などの撰集、俳諧式目書『埋木(うもれぎ)』なども刊行しました。俳諧師としての季吟は、実作に優れていたというより、数多の俳書にその才を発揮したといえます。

季吟の大きな功績の一つに、松尾芭蕉を指導したことが挙げられます。

芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。
藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。

良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。
蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。

季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。
このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。

また、蝉吟の学びに付き合うような形で、芭蕉は漢詩や和歌も学んでいったと考えられます。しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。

その後、29歳で江戸に下るまでの6年間、芭蕉の動向は正確には分かっていません。
引き続き藤堂家で働きながら、俳諧の研鑽を続けていったとも、蝉吟の死後、藤堂家での奉公を辞して京都に行き、季吟に入門したともいわれます。

どちらにせよ、伊賀か京都かで、季吟の指導を受けながら俳諧を学んでいたことは確かでしょう。

芭蕉が江戸で活動するようになると、季吟との関わりはなくなります。しかし、江戸で俳諧師として活動する際には、季吟から伝授された俳諧の作法書『埋木』が、芭蕉に権威を与えてくれました。

季吟との出会いがなければ、芭蕉という俳人は存在しなかったかもしれません

古典注釈者としての功績

季吟の最も大きな功績は、その古典研究にあります。

『源氏物語湖月抄』『徒然草文段抄』『枕草子春曙抄』『伊勢物語拾穂抄』『八代集抄』『菟芸泥赴』『万葉拾穂抄』など、古典文学に関する多くの注釈書を著しました。その数は百八十余冊にも及びます。

特に、『源氏物語湖月抄(こげつしょう)』は、原文と注釈・頭注を見開きに収めて、様々な学説を紹介しています。これは現代の解説書にまで受け継がれる形式です。

『湖月抄』さえあれば『源氏物語』を読んで理解できるわけですから、江戸時代を通じて、もっともよく読まれた注釈書であったのです。

季吟の著した数多くの注釈書は出版され、古典文学が一般の庶民にまで浸透する契機となりました。貴族階級のものであった古典を、広く普及させた功績は、大きいものでした。

松尾芭蕉が、季吟という大いなる古典学者から教えを受けたこと、つまり、古典に関しての深い理解があったことは、芭蕉の文学を考える上では忘れてはなりません。

幕府歌学方になる

季吟は66歳の時、幕府の初代歌学方として、子の湖春とともに江戸に招かれました。

歌学方とは和歌に関する様々なことをつかさどる役職で、この後、幕府の歌学方は北村家が世襲してゆきます。

東京・駒込にある「六義園(りくぎえん)」という庭園をご存じでしょうか。現在は都立公園となって一般公開されています(入園料が必要)。

0212154

ここは北村季吟がアドバイスし、柳沢吉保が作った庭園です。
「六義園」という名称は『古今和歌集』にちなんでおり、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として表現されています。

柳沢吉保も、古今和歌集や源氏物語などの古典文学をよく知る人ではありましたが、季吟の古典への造詣の深さがあってこその六義園ではないかと思います。

季吟はやがて、法印(僧侶の最高の位)の称号を受け、宝永2年(1705年)82歳で没します。

辞世の句は、

「花も見つほととぎすをも待ち出でつこの世後の世思ふことなき」

-松尾芭蕉の師、北村季吟

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

関連記事

関連記事はありませんでした