松尾芭蕉のお弟子たち

松尾芭蕉のお弟子たち

投稿日:2017年4月24日 更新日:

芭蕉は俳諧の宗匠(師匠)として暮らしを立てていました。芭蕉の指導に対価を払う弟子たちが、一定数存在していたのです。

俳諧は、数人で次々に句を続けていく特殊な文学ですから、優秀なメンバーがいなくては成立しません。「蕉門十哲」と呼ばれた弟子たちを初めとして、多くの優れた弟子たちが芭蕉の文学を支えていたことを、忘れてはなりません。

ここでは、芭蕉の俳諧人生に関わりの深いお弟子を、四人紹介します。

「篤実なる秘書」河合曾良(かわいそら)(1649~1710年)

ご存じ、『おくのほそ道』の旅に同行した弟子。芭蕉より5歳年下で、貞享4年には「鹿島紀行」の旅にも同行しています。

『おくのほそ道』の「日光」の章で、芭蕉は曾良について次のように紹介しています。

「曾良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒を並べて、予が薪水の労を助く」
芭蕉庵の近くに住んで、家事・炊事の手助けをしていたことがわかります。

旅の途中では、曾良は行く先々の支援者に連絡をとり、芭蕉の旅を陰で支えています。
実務に長けた秘書のような存在でした。

曾良が病を得て、芭蕉と別れてゆくとき、芭蕉は
今日よりや書付消さん笠の露」と詠みます。
(今日からは、傘に書いてある「同行二人」という書付を笠の露で消してしまおう)
「同行二人」とは、本来は「仏と我」。しかし芭蕉は「曾良と我」として句に詠みました。

曾良に対する信頼と愛情、別れに際しての悲しみが感じられる句です。

なお、曾良が残した『曾良随行日記』が、『おくのほそ道』研究の重要な資料になっていることはいうまでもありません。

「俳諧奉行」向井去来(むかいきょらい)(1651~1704年)

医師の次男として長崎に生まれます。一時は福岡で武芸を学び、福岡藩の武士になることもできたのですが、仕官はせず、京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に暮らしました。

貞享年間に其角を通じて芭蕉に入門します。
元禄2年の冬、『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉を、自分の別荘である落柿舎に招き、「不易流行」の教えを受けます。

元禄4年には、芭蕉は、去来の草庵、落柿舎で『嵯峨日記』を執筆します。このころ、去来は凡兆と共に『猿蓑』を編纂しました。

西三十三ヶ国の俳諧奉行」というニックネームがつけられるほど、西日本の蕉門をまとめる力を持っていました。

芭蕉の死後も、師の教えを忠実に守り、師の教えからそれていく其角や許六たちと論争を繰り広げ、『去来抄』『旅寝論』などの俳論書を著します。芭蕉の研究には去来の書いた書物は不可欠です。

「芭蕉の一番弟子」宝井(榎本)其角(たからい《えのもと》きかく)(1661~1707年)

医者の子として江戸の下町に生まれ、十分な教育を受け教養を身につけましたが、放蕩し派手な生活を送っていたようです。

芭蕉の句風とは異なり、派手で滑稽なものが多いのです。芭蕉に対しても、従順とは言えない面もありました。しかし、芭蕉はそういう其角を受け入れていました。

『虚栗(みなしぐり)』に採られた「草の戸に我は蓼食ふ蛍かな」
(タデ食う虫も好き好きというが、私は俳諧を好み、夜遊びを好む男だ)

という其角の句に対し、芭蕉は「朝顔に我は飯食う男哉」
(私は早起きして朝顔を眺め、ご飯を食べるようなちゃんとした生活をしている男です)
との句を作って戒めました。

芭蕉の死後は、「江戸座」と呼ばれる洒落と機知を中心にした俳諧流派を指導し、師の教えからそれてしまいます。

「パトロン」杉山杉風(すぎやまさんぷう)(1647~1732年)

杉山杉風といえば、芭蕉の経済的支援者という印象が強いでしょう。

幕府御用の魚問屋を営んでいた杉風は、豊かな経済力で芭蕉を支えました。
深川の芭蕉庵は、杉風の所有する番小屋でしたし、『おくのほそ道』の旅立ちにあたって、庵を人に譲ったあとは、杉風の別荘に移っています。

でも「芭蕉のパトロン」とだけ思われてしまうことは、おそらく杉風には不本意なはず。
芭蕉は「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と言ったと伝えられます。その人柄は人々に慕われていたのでしょう。

芭蕉はその死の間際、口述で遺書を残しています。その中には杉風にあてたものもあります。
「厚志死後まで忘れがたく存じ候」「いよいよ俳諧御つとめて候て老後の御楽しみになさるべく候」
芭蕉の杉風への深い感謝と思いやりの情が感じ取れます。

-松尾芭蕉のお弟子たち

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