松尾芭蕉のまわった名所

松尾芭蕉のまわった名所

投稿日:2017年4月15日 更新日:

おくのほそ道』の旅は、物見遊山が目的ではありません。芭蕉はどういう思いで「名所」の数々を訪ねたのでしょうか。

松島

松尾芭蕉のまわった名所「松島」
日本三景の一つ、松島。たくさんの島々が浮かぶ名勝として、現在も多くの人に愛されています。

そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず
(むかしから言い古されていることではあるが、松島は日本一のすばらしい風景であって、洞庭湖や西湖にくらべても恥ずかしくない)

美しい松島に、芭蕉は興奮しています。

芭蕉が松島の美を語るとき、引き合いに出されるのは、中国の名勝地であり、蘇東坡の詩でした。ここに、文学の伝統の中を旅する芭蕉の姿があります。

旅立ちの際「松島の月まづ心にかかりて」と書いた芭蕉ですが、松島では自らの句は記していません。なぜでしょうか。

「造化の天工、いずれの人か筆をふるひ、ことばを尽くさん」
(造物主の業を、だれが筆舌で表現できようか、いや、できない)

芭蕉は、表現しないことで、松島の美を表現しようとしたのではないでしょうか。

ちなみに「松島やああ松島や松島や」を芭蕉の句だと思っている人もいますが、狂歌師田原坊のものが元になった句です。

平泉

奥州藤原氏の旧跡。ここは西行ゆかりの地でもあり、源義経にも関係する史跡でした。

奥州藤原氏三代の栄華も、一瞬の夢のようにはかなく消えてしまいました。
義経ら主従の奮闘の跡も、今は夏草の中に埋もれて、ただ山河だけが残っています。
芭蕉は人の営みのはかなさを思い、「涙を落としはべりぬ」。

芭蕉は眼前に広がる空間の中で、時間の流れと、その中に生きる人間のはかなさを感じています。

「夏草や兵どもが夢の跡」
(昔、功名を競った武士たちの戦いの跡は、夢のように消え、今では夏草に覆われている)

万物は流転し、人はむなしい。

人のはかなさに涙した芭蕉が、次に訪れたのは中尊寺の光堂でした。
そこだけは、五月雨(「時」の隠喩と考えられます)の影響を受けず、かろうじて絢爛さをとどめていました。

「五月雨の降りのこしてや光堂」
(ここだけは梅雨も降り残したのだろうか、光堂は輝いて残っている)

流転していく自然と人間の中に見つけたわずかな光。
消え去るものばかりではない、残るべきものがある、と芭蕉は語っているのではないでしょうか。

象潟(きさかた)

松尾芭蕉のまわった名所「象潟(きさかた)」
かつては、松島と並び称せられる、多くの島々が海に浮かぶ景勝地でしたが、1804年の大地震で隆起して陸地となり、地形は一変してしまいました。現在、水田の中に残る

松の生えた小島が、かつての姿をかろうじて示しています。

「江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む」
(美しい海や山の風景を数多く見てきたが、今、この象潟へと心が責められる)

漢詩・漢文を踏まえた格調高い表現が印象的です。
ここでは、能因法師が暮らした能因島、西行法師が歌に詠んだと言われる桜を見ます。

後半、干満寺で象潟を一望して感想を述べた記述は、大変に美しく印象的です。

「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢、魂を悩ますに似たり」
(松島は美人が笑っているかのように明るく、象潟はうらんでいるかのように寂しさを感じさせる。寂しさの上に悲しさが加わって、この土地の様子は美人が心を悩ましているような趣である)

松島との比較が見事です。

芭蕉は、『おくのほそ道』の旅で過去の文学・歴史の遺産の地(歌枕)を訪れました。単に美しい風景、珍奇なものを求めていたわけではありません。歌枕を訪ね、古人の心にわが心を重ねようとしたのです。

詩的感動は、いにしえから脈々と続くものであり、絶え間ない流れの中に自分もいるという認識があるのです。

松島・平泉・象潟。これらの名所を並べたときに、私の心に浮かんでくる一つの言葉があります。

「有為転変」

わたしたちは、いくつかの自然災害を通して、この列島がいかに危うい所にあるのかを思い知らされてきました。
象潟は芭蕉の訪れたときの姿を、とどめていません。

松島は、震災の後も美しい姿を保っていますが、東北地方には今もなお、多くの失われた場所があります。
しかし、光堂のように残るものが、きっとあるはずだと思いたいものです。

松尾芭蕉のまわった名所「中尊寺金色堂の旧覆堂」

-松尾芭蕉のまわった名所

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