松尾芭蕉の歴史

松尾芭蕉の歴史

投稿日:2017年4月8日 更新日:

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松尾芭蕉の時代の「俳諧」とは、現代の「俳句」ではありません。

複数のメンバー(連衆)が集まって、五七五の長句と七七の短句を交互に続けて一つの作品を作りあげる、いわば共同で作る文学、「座の文学」です。

俳諧の最初の句(発句)が独立したものが「俳句」で、これは、明治時代に正岡子規が使い始めた言葉です。

俳諧が滞りなく進むように配慮しながら、座を捌いていく役目を負うのが、俳諧師(俳諧の宗匠)です。

伊賀上野の芭蕉

芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野の松尾与左衛門の次男として生まれます。実家は、農人の地にあり、父は農民の階級にいたと思われます。

19歳のころ、藤堂新七郎家に出仕し、当主の嫡子良忠(俳号蝉吟《せんぎん》)の小姓となります。この蝉吟を通して、北村季吟(きたむらきぎん)の指導を受け俳諧や古典文学を学びました。

23歳の時、蝉吟が死亡。
その後は藤堂家にいたか、京都に遊学したかは明らかではありませんが、季吟に師事し続けます。(『芭蕉の師、北村季吟』の項も参照してください)

江戸日本橋の芭蕉

29歳の芭蕉は江戸に下り、季吟門下の俳友の家に寄宿しながら句会に参加していったようです。やがて杉山杉風(すぎやまさんぷう)と知り合い、経済的な援助を受けるようになります。

31歳、北村季吟から俳諧指南書『埋木(うもれぎ)』を伝授され、俳諧師との実力を認められます。北村季吟らの俳諧は、古典を重んじながら言葉の遊び楽しむ伝統的な「貞門派」でした。

32歳、初めて「桃青(とうせい)」と号して俳諧に参加しています。これが江戸での俳諧師としてのデビューといえます。

このころ、江戸では談林派(滑稽や俗語を取り入れ、ルールに縛られない詠み方をする)が流行っていました。芭蕉も、貞門派から談林派に句風が変化していきます。

芭蕉は34歳のころ、宗匠として独り立ちし、門人をとったり句会の指導や採点を頼まれたりしますが、神田上水に関連する仕事も、副業として行っています。

37歳で、深川に移り住みます。賑やかな日本橋から寂れた深川に隠棲したのはなぜかという疑問が浮かびます。

そのころ、談林派の俳諧も行き詰まりを見せており、芭蕉の心の中に、このままではいけない、新しい俳諧をつくりたいという欲求がわいてきたのではないでしょうか。
(他説あり。「恋する芭蕉」を参照してください)

深川 芭蕉庵の芭蕉

深川の庵は、植物の芭蕉が茂ったことから「芭蕉庵」と名付けられ、俳号も「芭蕉」を使うようになります。

39歳の時、天和2年の大火によって芭蕉庵は焼失し、芭蕉は命からがら逃げ延びました。翌年には庵は再建されますが、人の世のはかなさを感じさせる出来事でありました。

41歳の芭蕉は、『野ざらし紀行』の旅に出て、9ヶ月かけて伊賀、大和、尾張、木曾、甲斐などを廻っていきました。

途中の名古屋で地元の俳人らと行った俳諧はのちに『冬の日』として出版されます。これは談林派の俳諧とは異なる新しい付け方を示し、蕉風を世に知らすものとなりました。

芭蕉は、43歳で「古池や蛙飛び込む水の音」の句を詠みます。蛙の「動」が古池の「静」を暗示し、「一瞬」の中に「永遠」を見る句です。これは、今までの言葉遊びの俳諧とは

次元のもので、蕉風俳諧を象徴する一句となります。
『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』の旅を経て、45歳の芭蕉は『おくのほの道』の旅に出ます。

『おくのほそ道』以後の芭蕉

『おくのほそ道』のあと、二年間に渡って京都とその周辺に滞在して、俳諧集『ひさご』『猿蓑』を刊行し『幻住庵記』『嵯峨日記』などを執筆しました。

『おくのほそ道』の旅の途中で、「不易流行(ふえきりゅうこう)」という俳諧論が生まれます。

「月日は永遠の旅人」と始めた旅の中で、平泉の時の永遠性、月山の天空の永遠性を見つけます。が、桜のつぼみのような移りゆくものにも、「あはれ」を見いだすのです。変化する流行(新しさ)と、変わらない不易(永遠性)があり、理想は両方を兼ね備えるもの、という考えです。

そして「かるみ」の境地に至ります。「かるみ」とは、日常の中に美を見いだし、自由な境地で自然や人間を素直に詠んでいくことです。

元禄7年10月12日、芭蕉は旅先の大阪で死去。享年51歳

病中吟「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」が辞世の句とされています。

 

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